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令和8年(2026)1月からNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』が放映されます。主人公は俳優仲野太賀(1993~、本名中野太賀)演じる豊臣秀長(1540~1591)です。彼は豊臣秀吉(1537~1598)を補佐した有能な弟として歴史好きにはよく知られた人物ですが、一般的にはさほど知名度は高くありません。
私が秀長の居城である郡山城(奈良県大和郡山市)を初めて訪ねたのは平成22年(2010)6月のことでした。大和大納言と呼ばれた豊臣秀長にふさわしい居城として整備され、今も石垣と堀がきれいに遺っています。櫓と追手門が復元され、平成29年(2017)4月6日には日本城郭協会によって続日本100名城に選ばれました。
天文6年(1537)2月6日、豊臣秀吉は尾張国愛知郡中中村(愛知県名古屋市中村区)の百姓木下弥右衛門(?~1543)、なか(1517~1592)の長男として生まれました。秀長は天文9年(1540)3月2日に3歳下の弟として誕生しています。ただし、『多聞院日記』では天文10年(1541)生まれとなっています。
秀吉の母がなかであることは確実で、秀吉は母を従一位に叙し、大政所の尊称を用い、寺を建立するほどの溺愛ぶりですが、父については顕彰するどころか墓すら作っておらず、弥右衛門を本当の父と考えることには違和感を覚えます。ただし、秀長については秀吉自身が「我らおとゝの小一郎(秀長)」(『黒田家文書』)、「拙弟秀長」(『宇都宮文書』)と書き記しているように同じ母から生まれた弟であることは間違いありません。
秀長が歴史に初めて登場するのは天正2年(1574)7月13日のことで、意外にも願証寺(桑名市長島町杉江)を攻めた長島一向一揆でのことです。織田信長(1534~1582)の伝記『信長公記』に「信長公は中筋はやを口、御先陣は、木下小一郎」とあるのが歴史上での初見です。13日に岐阜を発った信長は、その日のうちに津島(愛知県津島市)に到着し、14日は五明(愛知県弥富市五明町)へと移りました。この際に早尾口(愛知県愛西市早尾町)の先陣を務めたのが木下小一郎長秀、後の豊臣秀長です。兄秀吉は越前一向一揆の対応にあたっていたことから、長島には弟秀長が代わって従軍していたのです。
しかし、偽書ともされる『武功夜話』によれば天正元年(1573)9月に桑名で一揆が発生し、「羽柴小一郎様」が19日に千三百余の兵を率いて近江から大垣(岐阜県大垣市)に到着、そこから桑名に攻め込んで西別所城(桑名市西別所)を降し、堅固な守りの深谷部城(桑名市下深谷部)を「十有余日」かけて開城させています。この後、秀長は長島一向一揆に備えて桑名在番を命じられ、織田信長(1534~1582)より坂井(桑名市坂井)3,000貫文を与えられたと記しています。つまり、秀長は信長とともに岐阜から来たのではなく、前年から桑名におり、さらに領地まで得ていたことになります。
信長が本能寺の変で自害した翌年の天正11年(1583)2月、秀吉は織田家中で対立する柴田勝家(?~1583)、滝川一益(1525~1586)らと覇権争いの真っただ中でした。北伊勢を領する滝川の籠る長島城を攻めるべく、長浜城から押し寄せた秀吉は攻め立てたものの、守りが固かったことから近辺に放火し、そのまま南下して滝川方の国府城(三重県鈴鹿市国府町)、亀山城(三重県亀山市本丸町)、峰城(三重県亀山市川崎町)の三城を包囲しました。峰城の包囲軍には「小一郎はじめ、筒井(筒井順慶)・長谷川藤五(長谷川秀一)・蒲忠三(蒲生氏郷)、そのほか江州勢数万騎」(『近藤文書』、天正11年2月28日付)があてられました。
3月に入ると秀吉の挑発に乗った柴田が北ノ庄城(福井県福井市)から近江に南下したため、秀吉も3月27日に長浜へ戻り、4月21日に賤ケ岳の戦いで勝利します。追い詰められた柴田は24日に居城である北ノ庄城で自害しますが、長島城に籠った滝川は長く持ちこたえ、7月6日にようやく降伏しました。2月から3月にかけての北伊勢侵攻では、秀長は秀吉と行動を共にしており、恐らくは長島城攻めにも加わっていたと考えられます。
天正12年(1584)3月6日、滝川一益に代わって長島城主となった織田家当主織田信雄(1558~1630)は、鷹料理を振る舞うと言って岡田重孝・津川雄光・浅井長時の三家老を呼び寄せました。三人が天守の附櫓に設けられた座敷に入ると即座に成敗されました。三家老は秀吉に通じており、この一件を耳にした秀吉は激怒し、秀吉と信雄の対立が決定的となって小牧長久手の戦いが勃発します。
3月22日、『野坂文書』には秀長が二万四、五千の兵を率いて伊勢に入るとの情報が記されているものの、実際の兵力は七千に過ぎず、4月11日までに松ヶ島城(三重県松阪市)を攻め落とし、その後に尾張へ移動しています。このときに桑名を通過した可能性があります。
また、8月15日には大垣城に到着した秀吉が長島城の織田信雄を攻めるため、秀長に対して18日までに木曽川渡河のために船橋をかけるよう指示しています。この際も桑名からさほど遠くない場所にいたはずです。
10月28日頃、秀吉が桑名に着陣して小牧長久手の戦いもいよいよ大詰めとなります。到着早々に各所に放火して刈田も行い、付城四、五か所を築きました。11月6日には桑部城(桑名市桑部)と柿城(三重郡朝日町柿)を奪い、桑部城と縄生城(三重郡朝日町縄生)の普請に取りかかり、7日には縄生城に入りました。その後、稗田城(桑名市稗田)、桑部城などを完成させました。稗田城は員弁川北岸の自然堤防上の微高地に築かれ、位置的には南岸の桑部城と川を挟んで向かいに位置したと考えられます。当時の員弁川は稗田からやや北東へ流路を変えていたことから、桑部からみれば稗田城は南に突き出た場所にあり、連携しやすかったのでしょう。
11月10日頃、織田方の松ノ木城(岐阜県海津市海津町松木)に秀長軍が迫り、次第に長島城の包囲は厳重になっていきました。11月11日、織田信雄から和解の申し出があり、15日に矢田河原(桑名市矢田)で秀吉と信雄が会うこととなりました。信雄はわずか二、三騎を従えて秀吉の陣を訪れ、涙を流して再会し、和睦しました。『改正三河後風土記』によれば、勝者であるはずの秀吉は信雄を目にするなり「砂上に膝屈し平伏し、『今日再度天日を拝し、此恩を忘れるべからず』と謝し」たといいます。ここに小牧長久手の戦いは桑名において終結したのです。
天正13年(1585)1月、秀吉は家臣富田知信(?~1599)を長島城へ遣わし、織田信雄に上洛を促しました。しかし、秀吉の主君である信雄がその指示に従って上洛することは実質的な臣従を意味することから難色を示し、1月25日までに秀長も名代として派遣されました。結局は2月22日に信雄は大坂城に入り、26日に上洛しました。3月1日、信雄は秀吉の執奏によって従三位権大納言に叙任され、2日に長島へと下向します。ここに織田家と秀吉の主従関係は逆転したのです。
天正13年(1585)3月、秀吉は秀長を従え、織田信雄に味方した根来寺、粉河寺、雑賀衆といった紀州勢を征伐し、平定後に秀長に和泉国と紀伊国を与えました。閏8月には大和国も加増されて三か国を治める大大名となりました。その後、四国、九州へ征伐に赴き、天正15年(1587)8月には大納言に任じられ、以後は大和大納言と呼ばれるようになりました。このように秀吉を支えた秀長ですが、天正17年(1589)11月に京で「風気」(風邪、『御神事之記』)を患い、体調は次第に悪化して天正19年(1591)1月22日に大和郡山において51歳で没しました。菩提寺は春岳院(奈良県大和郡山市)、墓所は大納言塚(奈良県大和郡山市)と大徳寺の塔頭大光院(京都府京都市北区)にあります。
奥野高広・岩沢愿彦『信長公記』角川書店 1969
桑田忠親『改正三河後風土記(中)』秋田書店 1976
吉田蒼生雄『武功夜話 第1巻』新人物往来社 1987
柴裕之『図説 豊臣秀吉』戎光祥出版 2020
西村健二「秀吉の城『稗田城』」(桑名歴史案内人の会『在良村史記』所収)2020
内貴健太『家康VS秀吉 小牧・長久手の戦いの城跡を歩く』風媒社 2023
平山優『小牧・長久手合戦 秀吉と家康、天下分け目の真相』KADOKAWA 2024
河内将芳『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』戎光祥出版 2025

豊公誕生之地碑(愛知県名古屋市中村区、中村公園)

豊臣秀吉・北政所ねねを祀る豊国神社(愛知県名古屋市中村区)

豊太閤之像と豊臣秀吉公産湯の井戸(愛知県名古屋市中村区、太閤山常泉寺)

日吉丸となかまたち像(愛知県名古屋市中村区、中村公園)

現在は長良川に沈む長島願証寺跡(三重県桑名市長島町杉江)

長島願証寺ゆかりの長島山願証寺(三重県桑名市長島町又木)

長島一向一揆殉教之碑(三重県桑名市長島町又木、長島山願証寺)

桑名願証寺跡(三重県桑名市伝馬町、伝馬公園)

願証寺本坊終焉之遺跡碑(三重県桑名市矢田、蓮華山養泉寺)

蟹江城址碑(愛知県海部郡蟹江町城一丁目、蟹江城址公園)

豊臣秀長が訪れた長島城跡(三重県桑名市長島町西外面、長島中部小学校)

長島中学校正門(三重県桑名市長島町西外面、長島中学校)

豊臣秀長の居城大和郡山城の復元追手門(奈良県大和郡山市城内町)

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