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旅するソーシャルワーカー✈の桑員歴史コラム「丘の上から🍃」 第4回(歴史3)

壬申の乱、天武天皇と持統天皇の桑名行幸

<桑名を訪れた空海の祖父>

 令和4年(2022)2月、4年をかけて四国八十八箇所霊場を満願し、香川県の善通寺(香川県善通寺市、真言宗善通寺派総本山)で満願証を授かりました。善通寺の境内は多度郡少領であった佐伯田公の邸宅跡で、真言宗の開祖である空海(774~835)はその二男としてこの地で生まれたとされます。空海の母玉依御前は物部氏の一族である阿刀(安斗)氏の出身で、安斗智徳の娘と伝わります。実はこの安斗智徳、壬申の乱において天武天皇に従い、桑名を訪れたことがあるのです。

<大海人皇子の吉野脱出>

 天武天皇元年(672)5月、吉野宮(奈良県吉野郡吉野町宮滝)で隠棲していた大海人皇子(?~686、後の天武天皇)のもとに甥にあたる大友皇子(648~672,弘文天皇)が美濃と尾張で人員を徴発し、武器を持たせているとの情報がもたらされ、早く避難するよう注進がありました。これを受けた大海人皇子は、大友皇子との戦いに向けて準備を進め、6月24日に吉野を脱しました。
大海人皇子に付き従うのは后の鸕野讃良皇女(645~703、後の持統天皇)、息子の草壁皇子(662~689)と忍壁皇子(?~705)、それに安斗智徳らの舎人や女官ら40名に満たず、徒歩での出立でした。遅れて馬と輿を得た一行の歩みは早まり、大野(奈良県宇陀市)で日没を迎え、夜半に隠駅家(三重県名張市)、6月25日の夜明けに莿萩野(三重県伊賀市)に到着、積殖の山口(三重県伊賀市)で近江大津宮(滋賀県大津市)から駆け付けた高市皇子(654~696)と合流、日没に川曲の坂下(三重県鈴鹿市木田町)に到着しました。ここまでの強行軍で鸕野讃良皇女の疲労は極限に達し、休憩をとったものの、あいにくの雷雨となったことから、少し先の三重郡家(三重県四日市市采女町)へ移って建物を燃やして暖を取りました。

<迹太川で太陽を拝む>

 6月26日辰時(午前8時頃)、三重郡から朝明郡に入った一行は迹太(とほ)川で休憩を取りました。安斗智徳は自分の乗る馬に川の水を飲ませていたところ、仲間から注意を促されて川のほとりに目をやると大海人皇子の太陽を拝む姿がありました。たなびく雲の絶え間よりもれ出づる陽光は、急ぎの行軍で疲れ、不安を募らせた大海人皇子がつい拝みたくなるような幻想的な雰囲気だったのでしょう。皇室の祖先にあたる天照大神は太陽神であることから、これから戦にのぞむ大海人皇子には吉祥の兆候に見えたのかもしれません。
この直後、近江大津京(滋賀県大津市)から逃れてきた息子の大津皇子(663~686)も合流し、さらに不破道(岐阜県不破郡関ケ原町)の封鎖が成功したとの報告を受けて朝明郡家に向かいました。朝明郡家跡は発掘調査によって四日市市大矢知町の久留倍遺跡であることがほぼ確実となりました。ただし、その直前に太陽を望拝した迹太川の位置については諸説あって特定がされていません。南から海蔵川、部田川(海蔵川支流)、米洗川、十四川、朝明川、員弁川に比定する説があります。
このうち久留倍遺跡より北に位置する員弁川と朝明川である可能性は低くなりましたが、桑名市太夫に鎮座する増田神社には大海人皇子にまつわる由緒があります。大海人皇子が星川(桑名市星川)で禊を行って霞ヶ丘(桑名市太夫)で太陽を拝んだ後、仮殿でまどろんでいたところ、夢に天照大神から遣わされた天木綿筒神が猛獣の姿で現れて助力を告げ、たたけば轡の音がする大石を与えたというものです。
部田川説ではほとりに迹太川にちなむ社号を冠する遠保神社(四日市市山之一色町)が鎮座し、米洗川説では北岸に大海人皇子が額づいて太陽を遥拝したことにちなむ糠塚山(額突山、標高66.9m、四日市市羽津)があり、頂上には大正4年(1915)に建立された「天武天皇神宮御遥拝所碑」があります。山麓には天武天皇社がありましたが、明治時代末に伊賀留我神社(四日市市羽津)へ合祀されました。米洗川の名も天武天皇が禊をした際に米を洗って太陽に献じたことにちなむとの伝承があります。十四川説では昭和16年(1941)5月21日に三重県指定史跡となった天武天皇迹太川遥拝所跡(四日市市大矢知町)があり、「天武天皇御遺蹟」、「史蹟天武天皇迹太川御遥拝所址」、「天武天皇呪志乃御松」といった石碑が並びます。余談になりますが、糠塚山と大矢知町の天武天皇迹太川遥拝所跡はともに江戸時代に桑名藩領だったことがあります。

<桑名郡家に入った天武天皇夫妻>

大海人皇子一行はさらに北上して桑名郡家に入り、6月26日の夜は桑名で宿営しました。27日になると朝明郡家から不破へ先行した高市皇子から前線での指揮を請う使者が到着し、これを受けて大海人皇子は不破へ向かいました。しかし、疲労して体調を崩していた鸕野讃良皇女と年少の三皇子(大津皇子、草壁皇子、忍壁皇子)は桑名に留めることとしました。伊勢湾に面する桑名はいざという時に脱出しやすい上、陸路、水路ともに発達していて後方の兵站基地として利用価値が高かったことも留めた理由のひとつでしょう。この後、大海人皇子は大友皇子を破って自害に追い込み、9月8日に桑名郡家に戻って家族と再会して夜を明かしました。翌9日、一行は桑名を発って鈴鹿郡家に宿泊して飛鳥の島宮(奈良県高市郡明日香村)へゆっくりと帰りました。なお、大友皇子は即位した可能性は低いものの、明治3年(1870)になって弘文天皇として正式に歴代天皇に加えられました。

<桑名に残る天武天皇・持統天皇伝説>

ここで桑名に残る大海人皇子と鸕野讃良皇女の伝承を紹介しましょう。『久波奈名所図会』には大海人皇子が三崎の大藤内という船頭に船を出させて桑名から熱田へ渡ったといい、焦る心から着岸が待ち遠しいと感じて「まどをの渉りかな」と言ったことが記されています。この故事から七里の渡しは間遠の渡しと呼ばれたといいます。熱田は大海人皇子に味方した豪族尾張氏の本拠地で、尾張大隅は壬申の乱に際して私邸を掃き清めて行宮として提供した功績から持統天皇10年(696)5月8日に水田40町を賜っています。この私邸こそが鸕野讃良皇女が桑名で過ごした場所と考え、持統天皇を祭神とする県神社(桑名市蛎塚新田)に比定する説もあります。また、桑名市多度町小山の小字「天王平」は天武天皇が休憩した場所と伝わります。
桑名市新屋敷は明治・大正・昭和戦前期に桑名史蹟調査会が天武天皇行宮跡と考えていた場所です。近くには天武天皇御足洗井(別名菊の井)があり、大海人皇子が足を洗った井戸とされ、昭和3年(1928)10月に桑名史蹟調査会が石碑を建立しています。この付近は桑名市東鍋屋町に鎮座する天武天皇社の旧社地でもあります。その創祀時期は明らかではありませんが、慶長年間(1596~1615)に鍋屋町(現在地の南側)、天和年間(1681~1684)に現在地に遷座したと伝わります。柳揚寺(桑名市新屋敷)には「伊勢州桑名郡蛎塚者持統帝潜龍之旧趾」との銘がある元禄10年(1697)鋳造の梵鐘がありますが、寛永年間(1624~1644)までは現在地より少し南の御足洗井近くにありました。ただし、壬申の乱当時は現在よりも伊勢湾の水位が高かったことから新屋敷一帯はまだ海または湿地であったと考えられます。
 桑名市堤原の北桑名神社には昭和12年(1937)5月建立の「持統天皇御旧蹟碑」(奉天内山石松寄進)があり、揮毫は陸軍大将で内閣総理大臣を務めた林銑十郎(1876~1943)です。同年2月2日から6月4日のわずか4か月余りの短命内閣でありながら、この石碑は現職の期間に建立されたことが分かります。明治41年(1908)10月27日に北桑名神社に合祀された三崎御宝殿若宮社(佐乃富神社と三崎中臣神社の総称)はかつて桑名市宝殿町にあったとされ、持統天皇が桑名に滞在した際に三種の神宝を納めた場所と伝わります。そのうち面は紛失したものの、硯と鏡は今も北桑名神社に伝わります。三崎御宝殿若宮社の境内末社には持統天皇社(持統天皇舟玉社)があったことから、北桑名神社には祭神として持統天皇が祀られています。宝殿町近くの宮町も行宮跡との伝承があります。
この他にも桑名郡家の所在地には、桑名市矢田、本願寺、西方、北別所、東方、額田、西金井、安永、江場、小貝須、蛎塚新田、下深谷部といった諸説があり、現在も特定されていません。元和2年(1616)に徳川家康に仕えた儒学者林道勝(号は羅山、1583~1657)は京への旅の途中で桑名を通った際、持統天皇の「頓宮」はどこかを尋ねたものの、「しれる者なし」と『丙辰紀行』に記しています。桑名郡家については今後の発見と研究が期待されます。

<持統天皇が夢に見た伊勢湾>

持統天皇3年(689)9月9日の夜、法会を終えて眠りについた持統天皇は夢を見ました。そこでは亡き夫天武天皇が伊勢の海辺で潮風にあたっていました。これを詠んだ歌が『万葉集』に収載されています。天武天皇と持統天皇が伊勢湾に沿って歩いたのは四日市市から桑名市にかけての範囲で、しかも持統天皇が長期滞在したのは桑名です。桑名は持統天皇にとって最愛の夫である天武天皇と夢で結びつくほどの思い出ある土地だったようです。

明日香の 清御原の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も なみたる波に 塩気のみ かをれる国に うまこり あやにともしき 高照らす 日の皇子

<参考文献>

式内社研究会『式内社調査報告 第7巻 東海道2』皇学館大学出版部 1977
北山茂夫『天武朝』中央公論社 1978
遠山美都男『壬申の乱』中央公論社 1996
倉本一宏『戦争の日本史2 壬申の乱』吉川弘文館 2007
倉本一宏『歴史の旅 壬申の乱を歩く』吉川弘文館 2007
瀧浪貞子『持統天皇』中央公論新社 2019
桑名市博物館『桑名市博物館紀要 第17号』桑名市博物館 2023

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吉野宮跡とされる宮滝遺跡(奈良県吉野郡吉野町宮滝)

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糠塚山の天武天皇神宮御遥拝所碑(三重県四日市市羽津)

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糠塚山から伊勢湾を望む(三重県四日市市羽津)

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史蹟天武天皇迹太川御遥拝所址跡(三重県四日市市大矢知町)

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朝明郡家跡とされる久留倍遺跡(三重県四日市市大矢知町)

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くるべ古代歴史館(三重県四日市市大矢知町)

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天武天皇伝承がのこる増田神社(三重県桑名市太夫)

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額田廃寺跡碑(三重県桑名市額田)

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桑名郡家跡とされる県神社(三重県桑名市蛎塚新田)

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林銑十郎首相揮毫の持統天皇御旧跡碑(三重県桑名市堤原、北桑名神社)

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持統天皇伝承がのこる北桑名神社(三重県桑名市堤原)

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旧桑名藩主松平定敬揮毫の天武天皇御旧跡碑(三重県桑名市東鍋屋町、天武天皇社)

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桑名郡家跡とされる西金井遺跡(三重県桑名市西金井)

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