医療コラムColumn
昭和15年(1940)7月18日午前6時前、リトアニアの首都カウナスは夏とは言え曇り空の肌寒い朝を迎えていました。日本領事館の副領事杉原千畝(1900~1986)は大勢の人たちの騒がしい声で目を覚まし、カーテンの隙間から外の様子を伺いました。驚くことに、そこには100人を超える人たちが押し寄せ、領事館を取り巻いていたのです。千畝は妻の幸子(1913~2008)にも「ちょっと窓から覗いてごらん」と促すと、幸子も一夜にして領事館に多くの人々が押し寄せたことに驚きを隠せませんでした。
使用人に確認させると、彼らはドイツとソビエトに占領されたポーランドから逃れてきたユダヤ人たちで、日本を通過するビザ(査証)を得て第三国へ脱出しなければ虐殺を免れない危機的状況にありました。
千畝は200人ほどに膨れ上がった集団から5人の代表を選ばせ、交渉にあたりました。「本省へ電報を打ってみよう。一人では決められない難しい問題だ」と妻に話すと早速外務省にビザ発給の判断を仰ぎました。しかし、ドイツ、イタリアとの三国同盟を締結する直前にあたるこの時期にユダヤ人たちの逃亡に加担するようなビザ発給を外務省が認めることはありませんでした。
千畝本人の手記によれば「私はこの回訓を受けた日、一晩中考えた」「苦慮の揚げ句、私はついに人道主義、博愛精神第一という結論を得」たとして、7月29日より外務省の指示に反して大量のビザ発給を開始したのです。万年筆は壊れ、休憩も昼食もとらず、閉館時間を大幅に遅らせてまで連日ビザ発給に努め、しばらくすると通し番号も記録せず、手数料も徴収しないようになりました。千畝がみるみる痩せ、気力だけで書き続けていた様子を妻が記録しています。
すでにリトアニアのソビエトへの併合が決まっていたことから、カウナスの日本領事館は閉鎖を命じられていました。8月2日の外務省からの命令は無視したものの、8月26日には至急電報で再度の命令が届いたことから、同日中に閉鎖し、千畝一家はメトロポリスホテルへ移りました。ビザ発給はホテルでも続け、最後のビザは9月4日の早朝にカウナス駅からベルリンへ向かう汽車が走り出す車窓から身を乗り出して渡しました。走る汽車から千畝は「許してください。私はもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」と深々と頭を下げました。千畝の発給したビザによって命を助けられた人たちはおよそ6,000人にものぼるとされますが、正確な人数は明らかではありません。
平成21年(2009)3月、今は亡き母とともに杉原千畝記念館(岐阜県加茂郡八百津町)を訪ねました。カウナス領事館執務室を再現した「決断の部屋」では、命の危機に直面したユダヤ人達を前に外務省の指示に反してビザを発給するかどうかを千畝の立場になって考えることができます。記念館近くには「杉原千畝之像」があり、その偉業を讃えられています。
さて、杉原千畝は明治33年(1900)1月1日に岐阜県加茂郡八百津町の母やつ(1878~1921)の実家岩井家で生まれました。農林水産省日本の棚田百選にも選ばれた上代田棚田を見下ろす高台の屋敷で、千畝の名は広がる棚田にちなむと言われます。戸籍上では上有知税務署(現在の関税務署)に務める父好水(1872~1951)が間借りして暮らした教泉寺(岐阜県美濃市東市場)で出生したことになっており、「杉原千畝生誕地案内板」が建てられています。この近くには千畝町があり、好水とやつが生まれ育った八百津の棚田と千畝町の地名からインスピレーションを受けて名付けたのかもしれません。縁起の良い元日に生まれたことになっていますが、実際には前年の12月25日頃に生まれたと本人が語っています。
ところで父の杉原好水は非常に転勤が多く、幼少期の千畝はその居所を転々としました。明治36年(1903)3月に福井県丹生郡朝日村(現在の越前町)、明治37年(1904)3月に三重県四日市市、明治38年(1905)10月に岐阜県恵那郡中津町(現在の中津川市)と移り、明治39年(1906)4月に中津尋常高等小学校尋常科(現在の中津川市立南小学校)に入学、翌年3月25日付の学籍簿に名が記されています。
その直後の明治40年(1907)4月、父好水が桑名税務署に異動となったことで千畝は桑名町(現在の桑名市)に転居し、桑名町第一尋常小学校(現在の桑名市立日進小学校)に転校しました。当時の校長塚本左次郎(1860~1943)は旧桑名藩士三浦家に生まれ、明治20年(1887)4月の創立から35年間にわたって務め、さらに校長退任後も大正10年(1921)9月30日に「桑名郡桑名町立第一尋常小学校訓導」(『三重県公報 第920号(同年10月21日発行)』)に任じられて引き続き教壇に立った人物です。また、『桑名市史 本編』によれば明治40年(1907)4月には同校で「校舎改築」がなされたとあります。
しかし、同年12月に好水が朝鮮統監府度支部金城財務署主事として韓国へ単身赴任することになり、母やつは愛知県愛知郡八幡村(現在の愛知県名古屋市中川区)で建具屋を営む弟の岩井国松を頼って程近い名古屋へ移り、千畝は古渡尋常小学校(現在の名古屋市立平和小学校)へ転校しました。この単身赴任と転居に合わせ、弟乙羽が村瀬家に養子に出されました。
桑名で過ごした時期はわずか8か月でしたが、千畝の自筆手記には「幼年のある時機には石川県金沢市に住んだこともあればその后小学一年生としての残りの部分を三重県桑名市や岐阜県中津市で過ごし、そして小三の時からは名古屋に戻った」とあり、しっかりと桑名で過ごしたことを記憶しています。ただし、千畝の記憶では小学校一年生の最後を桑名で過ごしたと記憶しており、実際の転居の時期は3月以前でもう少し長く桑名で暮らしていたようです。
カウナスを去った千畝は東プロイセンのケーニヒスベルク総領事館(現在はロシアのカリーニングラード)、ルーマニアのブカレスト公使館を経てソビエト軍の捕虜収容所に収容され、日本に帰国したのは昭和22年(1947)4月7日のことでした。しかし、外務省の訓令を無視したユダヤ人へのビザ発給の責任を問われ、同年6月7日に依願退官を強いられました。その後は得意なロシア語を活かしていくつかの職を転々とし、イスラエルからの叙勲もありましたが、外務省からの許しを受けることなく昭和61年(1986)7月31日に神奈川県鎌倉市で亡くなりました。名誉回復がなされたのは、平成12年(2000)10月10日のことで、河野洋平(1937~)外務大臣が「故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされた」と演説し、外務省としての謝罪と名誉回復がなされました。
美濃市の偉人 人道の外交官 杉原千畝(1900~1986)
杉原千畝は、1900(明治33)年1月1日に大蔵省名古屋税務管理局上有知税務署の官吏であった杉原好水の次男として、この教泉寺に生まれました。
戸籍には、「明治33年1月1日武儀郡上有知町890番戸で出生父杉原好水届出同月7日受付入籍」と記されています。なお、「上有知町890番戸」は、現在の美濃市東市場町2625-1-1で教泉寺になります。
千畝は、第二次世界大戦中の1940(昭和15)年7月、赴任していたヨーロッパのバルト三国の一つリトアニアのカウナスでナチスドイツなどの迫害から逃れてきたポーランド系ユダヤ人などに外務省の指示に反して日本通過ビザを発給しました。このビザを持った彼らは、シベリア鉄道でウラジオストクに着き、船で福井県の敦賀に上陸しました。そして横浜や神戸からアメリカ、カナダ、オーストラリア、パレスチナ(現在のイスラエル)、上海、などへ渡りました。
1985(昭和60)年1月18日、千畝はイスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績により日本人で初めて「諸国民の中の正義の人(ヤド・バシェム)賞」を受賞しました。
私たちは、杉原千畝の功績を讃え、未来を担う子供たちに「命の大切さ」、「平和の尊さ」を伝えていきたいと思います。
平成30年10月13日
教泉寺住職 近藤利尊
杉原千畝さんに学ぶ会
近藤杢・平岡潤『桑名市史 本編』桑名市教育委員会 1959
近藤杢・平岡潤『桑名市史 補編』桑名市教育委員会 1960
渡辺勝正『真相・杉原ビザ』大正出版 2000
渡辺勝正『決断・命のビザ』大正出版 2005
杉原幸子『六千人の命のビザ』大正出版 2008
古江孝治『杉原千畝の実像 数千人のユダヤ人を救った決断と真相』ミルトス 2020
岐阜新聞社編集局「千畝の記憶」取材班(鈴木隆宏・堀尚人・宮本覚)『千畝の記憶 岐阜からたどる「杉原リスト」』岐阜新聞社 2021
林原行雄・安島政実・工藤智子『杉原千畝「命のビザ」決断の記録』杉原千畝命のビザ 2024
杉原千畝氏之像と杉原千畝記念館(岐阜県加茂郡八百津町八百津)
記念碑「世界に奏でる平和へのビザ(岐阜県加茂郡八百津町八百津)
母やつの実家岩井家の眼前に広がる上代田棚田(岐阜県加茂郡八百津町八百津)
杉原千畝の出生地の上代田集落(岐阜県加茂郡八百津町八百津)
杉原千畝の最初の自宅となった教泉寺(岐阜県美濃市東市場町)
命名の由来となったと考えられる千畝町(岐阜県美濃市千畝町)
桑名市立日進小学校には杉原千畝が通った正門の門柱が今も残る(三重県桑名市新屋敷)
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